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渋谷剛史
わたしの身体(からだ)の話 -2つの身体(からだ)について

 

9/3/2022 - 10/2/2022

今回の展覧会では柔道と難聴という自身の身体にまつわる2つの作品を展示した。 難聴を扱った「分断の音」は部屋の中央に、柔道を扱った「講道館のイヴ・クライン」はかつて風呂場だった部屋の隅に設置し、「分断の音」が置かれた部屋に「講道館のイヴ・クライン」の音声が流れてくるようになっている。

その構成はある映画の悪役が機械で自身の身体を補いながら戦う姿を見て思いついたものである。彼はかつての仲間との戦いがきっかけで全身に火傷、そして四肢を切断され、その後は機械で身体を補いながら素性を隠して生きていた。

 

私は難聴と発達障がいの2つの障がいを持っている。しかし、障がいについては最近まで大した意識もせず、不便さを感じつつも、進路や作家活動でさえも柔道を通して何とかしてしまったという経験を繰り返してきたためにある職場に就職するまでは感情のどこかで認めないで過ごしてきた。

しかし、コロナ禍が始まった頃にたまたま教員の空きがなく就職した福祉施設で、難聴を理由にした待遇の格差や後に見つかった発達障がいを理由にした格差の上塗り、いくら足掻いてもどうにもならない健常者である職員との壁や差別を経験し、そのことについて意識するようになった。

 

その後、ほんの1ヶ月ではあるが引きこもりがちの生活を送ったのちに就職し、待遇もかってより遥かによくなってきた頃にたまたま、前述で述べた悪役の映画を見た。

昔の正体や不自由さを隠し、戦う悪役の姿は迫る展示の資金や生活のために健常者として生きようと自身の障がいに目をつむり、そして最後は悪役として扱われた福祉施設での経験に通づるものがあった。

映画でその悪役は鎧のようなスーツを身に纏い、体の不自由さを補っていた。

 

そんな悪役の彼に奇妙な共感を感じ、映画の悪役が正体を隠すために着ていた機械の鎧の話にインスピレーションを得て、不自由さを補ってきた鎧である柔道が本来最も目を向けるべきだった障がいを隠すという私の身体の話そのものに通づるような空間にしたいと考えた。

私に限らず、誰にでも生まれ持った身体と生きる中でできた身体と2つの身体があると考える。そして、それによって制約もあれば、その逆の立場になり得ることだってある。そのような本来は気づけそうで気づけない身体における自由と不自由の話を”私の身体の話”の中から感じ取ってもらえればと思う。 

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